「わたしのマンスリー日記」第11回 帰郷――「われは山の子」
もう故郷の松本に帰ることは無理かもしれない。何度そう思ったかしれません。でもそんな私の背中を押してくれたのは、昨年(2022年)11月に岐阜市で開催されたエンジン01文化戦略会議のオープンカレッジに参加したことでした。往復900キロ、介護タクシーでストレッチャーに縛られたまま往路9時間、復路6時間の旅は確かに酷なものではありましたが、私の心は3年半ぶりの外出に踊っていました。
10月21日土曜日、介護タクシーは朝9時前に千葉市の自宅を出て一路松本を目指しました。距離は300キロ。岐阜までの3分の2です。てっきり3時には松本に着けると踏んでいたのですが、さにあらず。中央高速が八王子付近で45キロの事故渋滞に見舞われ、徳運寺に着いたのは夕闇が迫ろうとする5時頃でした。
まず徳運寺の山門を目にした時、涙が溢れました。ついに念願の帰郷を果たしたという突き上げる思いでした。山門周辺には私の兄弟姉妹、甥や姪、それに私の長男と次男家族などが出迎えてくれました。一人一人の顔を見て、また涙……。
車椅子を向けて前にそびえる山を見上げた途端、涙がどっと溢れてきました。名もない山なのに、どこにでもある平凡な山なのに……、その山を見ただけで涙が溢れてくるのです。故郷の山に向かって言うことなし……。まさにその通りです。こちらが語らなくても山は優しくいくらでも語りかけてくれるのです。
戦前の文部省唱歌に「われは海の子」という名曲があります。「我は海の子白波(しらなみ)の/さわぐいそべの松原に/煙(けむり)たなびくとまやこそ/我がなつかしき住家(すみか)なれ」――日本人なら誰でも幼い頃口ずさんだことのある歌です。日本の情緒をたっぷり伝える歌ですが、それに関連して不思議に思ってきたことがあります。それは「われは海の子」はあるのに、なぜ「われは山の子」はないんだろうという不満めいた思いでした。そこで僭越ですが(笑)、私流に「われは山の子」の歌詞を作ってみました。
我は山の子清流(せいりゅう)の
上にそびゆる峰(みね)のぞみ
煙(けむり)たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ。